1967.7.9.ブランズハッチに日の丸がたなびいた。"序”の章
その前年となる1966年、巨人がV9の中の4連覇目を果たした年、画家、生沢朗の息子"生沢徹"が、単身ヨーロッパへ旅立った。
生沢は1963年の第1回日本グランプリに、スカイライン・スポーツGTを乗りプリンス自動車の契約ドライバーとしてプロレーサーデビューを果たし、
翌1964年の第2回日本グランプリでは、当時最強の本格レースマシンだった式場壮吉のポルシェ904GTS相手に、ワークスマシンとはいえ、セダンを改造したスカイラインGT(型式S54B)で、一時はトップに立つという健闘を見せ、鈴鹿サーキットに訪れた観客の喝采をあびた。
このシーンが生沢徹とスカイラインというブランドの誕生の瞬間である。今に続く“スカイライン神話”を創ったのが"生沢徹"とも言える。
さらに翌年の1965年に東京近郊の「船橋サーキット」で行われた全日本自動車クラブ選手権において、故“浮谷東次郎”との死闘により"生沢徹”の名前は若者の間でカリスマとして知れ渡った。
“浮谷東次郎”と“生沢轍”はレース界の“武蔵と小次郎”に例えられ、後世の語り草となっている。
当代人気ナンバーワン・レーシングドライバー"生沢徹"が、その地位を棄ててチャレンジしたヨーロッパのレース界は、当時の日本とは比較にならない高いレベルだつた。
頂点にFー1があり、その下にFー2、さらにFー3というカテゴリーが存在し、各々がイギリス、フランス、スペイン、ドイツなどの各国のF−3ラウンドを戦い、その中から選ばれたものだけが、上のカテゴリーにステップアップしていくと云う、野球のアメリカ大リーグのようなシステムが、レースで確立していたのだ。
レースの本場ヨーロッパという言葉がぴったりあてはまる歴史と伝統がそこにはあった。
日本にクルマが生まれてわずか10年足らず。しかし、あの栄光のル・マンレースはすでにこの'67年で35回!!を数えていた。
'67年5月、里帰りした第4回日本グランプリでは、4台の“ニッサンR380−2”を相手にプライベートとして“ポル
シェ・カレラ6”で参戦し念願の優勝した生沢は、ようやく本場のイギリスF−3選手権に本格参戦できた。
それも、参戦してすぐに7月のブランズハッチでF-3初優勝を遂げると8月に2勝。総べて、ポールトゥウインとレース中のファステスラップもゲットしての完全勝利にイギリス野郎たちは驚いた。
9月には西ドイツの「ニュルブルクりンク500キロレース」にボンネットに日の丸
の“ホンダS800”でエントリー。ルノー・アルピーヌ、マトラ、ロータス47、エラン、アバルト、アルファロメオ、NSUのバンケルなど生沢より大排気量のクルマばかり82台中、11位でゴール。もちろんクラス優勝だ。"国際レースで日本車で日本人が優勝"した第一号が生沢徹だ。
翌1968年には念願のポルシェ・ワークスのドライバーとして、世界メーカー選手権のかかったワトキンスグレン6時間レースに“ポルシェ908”で出場を果たしたが、
Fー1からのお呼びはかからなかった。
なんと1970年ヨーロッパF−2選手権にステップアップするまでの3年間も生沢はF−3で戦った。F-3、通算9勝。F2での最高成績が2位---2007年GP2(F−2格式)第7戦ハンガリーで中嶋一貴が2位入賞するまで、日本人の最高記録だった。。
もし生沢がヨーロッパで生まれていたら、とうの昔にF-1ドライバーになっていた。そうばれば、日本のレースの歴史は大きく変わっていただろう。
スポーツ選手の全盛期はおしなべて短い。ましてや、レースの世界で、絶頂期に最良のチャンスが巡ってこないと、歯車が噛み合う事はとても難しい。
生沢がF-2に昇格した'70年も“ロータス69FVA”で、レガッオーにとコンマ8秒差の2位を含むいくつかの好成績を残すが、F-1からのオファーはなかった。この年が、躯も資金も細身の日本人、生沢のラストチャンスだったといえる。
R.ピーターソン、C、レガッオーニ、E、フィティバルディなど同期が次々とFー1に登り詰めるのを横目に、スポンサー確保のために日本と欧州を往復しながら戦う生沢は、後進の風戸にすべてを託すように、 1973年をもってヨーロッパでのチャレンジを断念した。
“F−1ドライバー”に最も近い日本人という称号は残ったが。
<文中敬称略で使用させていただきました。>
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