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とりあえあず休息、しかし、物語は終わらない。2012、September"訣の章”

”栄光のルマン”のポルシェが、日本へ飛来した。マックイーンの代わりに生沢が来た。


生沢のヨーロッパ・コネクションの一つがポルシエだ。生沢がプリンスのエースドライバー時代、苦しめられたのがポルシエ。それが、プライベーター生沢になった時、救世主となったのもポルシエだった。
1971年、不調の生沢に日本のマスコミは「落ちた偶像」なるタイトルをつけた。たしかに、67年から69年のレースに"出れば優勝"は無くなってきた。"出れば優勝"できれば今頃F1チャンピオンだ、生沢は内心そう思ったが、口には出さない。クールな一匹狼は、簡単には吠えないのだ。
この年、富士ではじまったビッグカーレース"富士グランドチャンピオン・シリーズ"が日本で大人気だった。69年以降、消滅した日本グランプリにかわるスポーツプロトレースだ。

日本グランプリは70年からフォーミュラーカーで争う、ヨーロッパスタイルに様変えした。いかんせん、モータースポーツ後進国、日本は、カウルのない、タイヤむき出しのフォーミュラーカーにイマイチ興味が薄く、かってのトヨタ、ニッサンの看板を背負ったスポーツカーレースが大好きだった。
そんな日本人嗜好に合致した"富士グランドチャンピオン・シリーズ"、通称「グラチャン」が日本のメインレースに成ってきた。かっての日本グランプリを目当てに購入したビッグマシンが 倉庫に眠っているための窮余策でもあったが。
そこで生沢の登場だ。スターレーサー生沢がレースに出るか出ないかで、レースの人気が激しく上下した。主催者にとっても、マスコミにとっても生沢は"興行"の鍵を握っていた。
たとえ、不調でも生沢に代わるスターは居なかった。
そこで生沢が選んだのは、シュットガルトの怪鳥といわれた"ポルシエ917K"。門外不出のワークスマシンを生沢コネクションが富士へ持ち込んだ。
1971年10月10日、富士グランチャンピオンシリーズ最終戦マスターズ250Kmレースは、生沢と最強のポルシェ人気でサーキットが埋まった。
ポールポジションは生沢にライバル心を燃やす酒井正"マクラーレンM12"、 生沢徹 の"ポルシェ917K"は3番手。その後に風戸裕の"ポルシェ908MK2"、 軽量の2リットル・スポーツカー勢、田中弘"シェブロンB19"、高原敬武"ローラT212"と続く。
天候はあいにくの小雨状態。ウエイトのあるビッグマシンがやや優利か、
スタートして、マクラーレンM12の酒井とT・アダモウィッツの二人にピタリと緑色の怪鳥"ポルシエ917K"生沢"が続く。雨は相変わらず降りつづく。
酒井のマクラーレンM12がトップ、生沢は2番手、風戸が3番手で迎えた中盤戦。
いきなり酒井がコース上で止まった。酒井は相変わらず生沢に勝てずにリタイア。 しかし、2位からトップに躍り出たのは、期待の生沢でなく、新鋭の風戸だった。後の「サーキットの狼」の主人公、風吹裕也になる?風戸が1位で生沢は2位だ。
雨は止むことなく続き、レースはこのままフィニッシュ。

生沢にとっても、ファンにとつても不満の残る結果だったが、話題を巻き、クールにレースを終える点で生沢らしいレースだった。

翌年からこの"富士グランドチャンピオン・シリーズ"、通称「グラチャン」に生沢はフルエントリーする。傍らで、日本最初のシグマMC73によるルマン・チャレンジも始った。

謎のF1マシンと云われた「マキF1」が突如ヨーロッパに表れたのもこの頃だ。生沢は勝てる見込みがないF1に乗る意志はなかった。逆に生沢を乗せるためのF1チームby日本も構想も持ち上がってきた。生沢は居ることで日本のレース界は活況を呈してきたのだ。
生沢は、イギリスより、日本に無くてはならない存在であることが証明された。
■1972 富士GC.Driver's Championship
PosDriverMachineRd.1Rd.2Rd.3Rd.4Rd.5Total
1鮒子田 寛シェブロンB21P・Ford242015849
2漆原 徳光ローラT290・三菱-115201046
3柳田 春人フェアレディ240ZG、ローラT212・Ford202004044
4木倉 義文ローラT290・Ford--10121538
5永松 邦臣ローラT290・三菱010002030
6生沢 徹ローラT212・Ford、GRD-S72・Ford30801223
7田中 弘シェブロンB19・Ford08120020
8大塚 光博フェアレディ240ZG6640117
9星野 一義フェアレディ240ZG15-0--15
9高橋 健二フェアレディ240ZG-15---15

■1972 富士GC
フルエントリーした生沢はGRD S72/フォードという全くのニューマシンを富士に持ち込んだ。イギリスの新興コンストラクターGRD社の、富士GC&生沢スペシャルの2リッタースポーツカーだ。



■1974 富士GC.Driver's Championship
PosDrivertyreMachineRd.1Rd.2Rd.3Rd.4Rd.5Rd.6Total
1長谷見昌弘BSマーチ73S・BMW200-1241551
2高原 敬武BSマーチ74S・BMW010_0202050
3生沢 徹BSGRD-S74・BMW63_1015337
4高橋 国光BSマーチ73S・BMW020_-01232
5鮒子田 寛DLマーチ73S・BMW、
シェブロンB21P/23・Ford
3-_200831
6津々見友彦DLローラT212・Ford、
ローラT290・Ford
120_401026
7藤田 直広DLシェブロンB23・BMW--_812424
8鈴木 誠一BSローラT292・Ford152_---17
8岡本 安弘DLシグマGC73・マツダ0-_15-217
10黒沢 元治BSマーチ74S・BMW015_---15
10従野 孝司DLシェブロンB23・マツダ00_68115

■1974 富士GC
この年、生沢は、英国GRDにボデイなしのシャーシのみをオーダーした。ボデイは富士の高速コースを意識して日本のノバでモディファイ、日英混血のGRD-S74がここに誕生した。
しかし、第2戦で富士の30度バンクで多重クラッシュ、風戸、鈴木、中野の3人が他界。人気と共にヒートアップする一方の富士GCは最初の過度期を迎えた。



■1976 全日本GC.Driver's Championship
PosDriverTyreMachineRd.1Rd.2Rd.3Rd.4Rd.5Total
1高原 敬武BSマーチ74S・BMW20201121568
2生沢 徹BSGRD-S74・BMW3120201256
3藤田 直広DLシェブロンB23・BMW12101515052
4佐藤 文康DLマーチ73S・BMW6884430
5北野 元DLマーチ74S・BMW215210029
6星野 一義BSマーチ74S・BMW1-612028
7高橋 国光BSマーチ73S・BMW150101026
8N.ニコルBSマーチ74S・BMW-218819
9B.エバンズBSアルピーヌA441・ルノー-12-6-18
10長谷見 昌弘DLマーチ76S・BMW--123-15
■1976 全日本GC
76年、ようやく予備のBMWエンジンを手に入れた生沢、それまで、たった一機で戦っていたとはおどろきだが。この年第3戦、第4戦と連続優勝。しかし、チャンピオンは同じ2勝の高原敬武(4年連続)に持っていかれた。



■1977 富士GC.Driver's Championship
PosDriverTyreMachineRd.1Rd.2Rd.3Rd.4Rd.5Total
1生沢 徹BSGRD-S74・BMW122012101064
2星野 一義BSマーチ74S・BMW2030202063
3片山 義美DLマーチ74S・マツダ0150121239
4従野 孝司DLマーチ76S・マツダns12001536
5鮒子田 寛DLシェブロンB36・BMW61063328
6佐藤 文康DLマーチ73S・BMW8626426
7桑島 正美BSマーチ73S・BMW18150024
8高原 敬武BSマーチ73S・BMW、紫電77・BMW、
シェブロンB36・BMW
15002623
9長谷見 昌弘BSシェブロンB23・BMW101100122
10藤田 直広DLシェブロンB23・BMW、シェブロンB36・BMWns1115219
■1977 富士GC
4年連続GCチャンピオンの高原は、余裕でムーンクラフト製の富士スペシャル、紫電77・BMWを持ち込んだが、なかなかセッテングが決まらずシエブロンを持ち出したりして23ポイント、8位に終わる。
高原の不調により、シリーズは生沢と星野とのマッチレースに。1勝と全戦4位以上、完走率100%の生沢が、日本一速い男を1ポイント差で上回り、遂に待望のGCチャンピオンに輝いた。
生沢のGRDが起こした"富士スペシャル"というムーブメントが、高原の紫電77を生んだ。成績は芳しくなかったがその美しいロングテールデザインは、その後の富士GCに多大なる影響を与えた。


この年を境に生沢は現役ドライバーから少しずつ退いて行った。生沢はI&Iレーシングチームの監督として中嶋悟に生沢DNAを託した。10年後の1989年、その中嶋が日本人最初のフルシーズン・F1ドライバーとなった時、生沢の 名前はサーキットから去っていた。
かって、日本中を熱狂させ、細身のカラダでトヨタ、ニッサン、ミツビシなど巨大なワークスに挑み、時には勝利した元祖日本レース界のカリスマが、F1の解説にすら登場しないのを寂しく思うのは筆者だけか。

2005年11月、鈴木亜久里がメイドイン日本のF-1チームによる2006年F-1参戦を表明した。ドライバーは佐藤と本山か。或いは高木虎か、はたまた外人か?
生沢が20年前に目指したそれが、ようやく現実になった。しかしエントリーするだけなら意味がない。果たして、ソフトバンクとホンダのサポートがどこまで続くか、といった不安が今度は沸いてくる----。
そして、あまりにも速すぎた生沢は、人々の記憶に残るだけで、あっさりピットインしたままだ。 でも、エンジンもマシンも壊れていない、タイヤを替えて、ガス補給すれば再びピットアウトするのは可能だ。

1972年、生沢が英国GRDに制作させた富士GCスペシャルS72は、レースギリギリの日本到着だった、雨が止まない富士のスタンドには多くの生沢教信者が陣取っていた。しかし、レーススタート後もGRD・S72はピットで調整してる。
「とにかく、今日は走る。」
コクピットから動かない生沢に気押されるようにピットクルーは必死の作業を続ける。
そして、ついに、生沢GRDが走り出した。雨は一向に止む気配はなく、スポーツカーはアクセルを踏めない。柳田のフェアレディZが首位を走行している時にだ。
走り出した生沢は、アクセルが踏めないシエブロンやローラーを尻目に、凄いスピードで富士を周回しはじめた。教祖の水上走行に信者は大歓声だ。
水すましがスイスイと河を渡るように、生沢はハイドロプレーニングを起こしながら富士の直線、コーナーを猛スピードで走っていた。もはや順位は関係ない、ただ、生沢と水中翼船GRDの華麗な水上ショーが見られただけで満足だった。
極細のレーシングタイヤを雨の富士用に用意していた生沢の独演会だったが、そのシーンは今も脳裏に焼き付いている。
ゼッケン37、白い生沢のマシンがふたたび舞い降り、丹頂鶴のごとくサーキットで円舞する姿を筆者はまだ諦めていない。

<文中敬称略で使用させていただきました。>

2005.07November wrote







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